セシルのゼロから始める米国株投資

化粧品メーカー勤務の31歳社畜サラリーマンが、化粧品のこと、資産形成(米国株式投資🇺🇸)など、日常に少しの付加価値を与える情報を発信するコンテンツです。

新卒でブラック企業に入社した人の末路


私が新卒で入社した会社はブラック企業でした・・・

こんにちは、セシルです。


今の社会は人手不足による空前の売り手市場と言われていますね。
そんな中でも来年の3月に卒業を控えているけど「まだ1社からも内定をもらえていない!(泣)」という学生さんもいるのではないか、と思います。
また、相次ぐ経団連からの就活開始時期変動のお達し・・・

私も含め、一昔前の「就職氷河期時代」経験者の方はさぞ苦労して内定を勝ち取ってきたと思いますが、現代の学生も異なる苦労をしているなと感じた今日この頃。

今回は、新卒でブラック企業に就職してしまった私自身の体験談と就活についてのあれこれを2部構成で書いていきたいと思います。

いずれ何かしらの形で記録に残しておきたいと考えていたので、このブログというツールに出会えたことに感謝です。

同じ研究室の友人と決めた就職先

私は四年制大学の理系で主に化学系を専攻していました。
毎日夜遅くまで実験の連続で嫌気がさした時も何度もありますが、無事に留年することなく卒業することができたんですね。

文系の方は3年生の早い時期から就活を始めて早々に内定の切符を手にしている方が多いと思いますが、理系となるとそうもいきません。

卒業研究などがハードなので時間がどうしても取りにくいからです。

そんな中でも私が大学1年の頃から同じ研究室に入るまでずっとつるんでいた友人は違いました。
非常に要領がよかったので勉強、研究、そして就活まで難なくこなし、早々に内定を決めていました。
しかも東証一部上場の外食産業最大手の大企業です。

その時の私の心境は、
「こういうやつが勝ち組なるんだろうなー」と漠然と考えていたのを覚えています。

そんなある日、友人から「おれが内定もらった会社、まだ募集してるから試しに受けてみなよ」と打診されました。

当時の私は関心があって、学んでいることを活かせそうな「化学メーカー」や「化粧品メーカー」に絞って就活をしていましたが、試しに友人が内定をもらったという東一上場の大企業を受けてみることにしました。

詳細をざっと調べたところ募集人数が「150名前後」と衝撃を受けました。

他の大手企業や私が受けていた中小企業は多くても「5名前後」だったのでおよそ30倍近く・・・

最初は疑問に思うところも多かったですが、
事業成長率が高いから大量に募集をかけているようなことを聞いた気がします(笑)


まぁ皆さんお察しの通り、結果として内定通知をいただきました。
学生時代、ずっと続けていたマクドナルドのマネージャー経験もあってか割とスムーズに内定が決まったんですよね。

内定が決まってもしばらく就活を続けていましたが、色々考えた結果これ以上の大手企業に受かることは無いかな?と半分あきらめの気持ちと、友人と同じ企業に就職して2人で上を目指す!という気持ち半分でその企業に就職を決めました。

なんだかちょっとマンガのようなエピソード?(笑)

ただ、ここからがブラック企業入社物語の始まりです。

想像を絶する生活

ここから約3年間、ブラック企業に勤めるのですが、簡単に時系列で振り返っていきます。


【1】脅威の1ヶ月間雪山合宿
入社式を終えてまず最初の試練は、とある雪山のホテルで1ヶ月間缶詰めにされ「心技体」を鍛えるべく軍隊のような生活を余儀なくされました。

・午前中・・・早朝から筋トレをした後、座学で必死に会社の憲章や社内用語を一語一句丸暗記。

・午後・・・外食産業なので当然お店の接客用語や動作経済に基づくムダな動きのないオペレーションの訓練。

・深夜・・・4時頃まで座学の暗記続き
※翌日の朝に筆記テストがあるため。

詳細は割愛しますが、毎日睡眠時間2〜3時間でよく耐えたなと思います。
今となっては貴重な体験のできた、良い思い出です(笑)


【2】実店舗での2週間研修

都内に戻ってきた一行は、スリーマンセルとなって都内にある約50店舗に研修に赴きました。
1チーム毎にトレーナーが付いたのですが、私のチームはたまたま合宿の時の鬼トレーナーでした(笑)


【3】本配属された地へと引越し

晴れて2ヶ月間に及ぶ「社会の洗礼」を受けた私たちは、各々配属された地へと引越しをすることとなりました。

私の最初の勤務地は神奈川県の厚木方面でした。
玉出身ということを考えると、割と帰省しやすい場所で良かったなと当時は思っていました。
※地方に飛ばされた同期の方が多かったですからね(笑)
ちなみに友人はというと、東日本大震災の爪痕がまだまだ残る仙台方面でした。

詳しいことは聞けていませんが相当に悲惨な状況で、復興からのスタートだったと聞きます。


【4】24h営業という悲劇

同期含め配属から3ヶ月間、みっちりと現場でのオペレーションを習得し、トントン拍子でマネージャーへと昇進していきました。

そうなると当然「責任」も増えるわけで、1人で3〜10店舗くらいの管理を任されました。

今でも忘れずに覚えているのは「魔の年末年始」です。
年末年始になると帰省者も多いので誰もシフトに入りたがりません。
私が24時間寝ずにぶっ通しでシフトに入り、1人でお店を回した経験も何度かあります。
長い時は48時間の丸2日間働き続ける時もありました・・・
今となっては笑い話ですけどね(笑)

もちろん、そんな苦しい状況でも合間にシフトの穴埋め作業などはしなくてはなりません。

直属の上司もいましたが、上司も仕事に追われている状況であったため、そんなに頼ることもできなかったんですよね。


今は特にそうですが、昔から飲食業の「人手不足は慢性化していました」

私の勤務先だと複数の店舗を24時間常に稼働させなければならないので、そこには必ず「人」が必要になります。

とはいえ、地域によってはどうしても採用が難しい場所もありますから、そういう所へヘルプをお願いするのは日常茶飯事でした。

そのような運営スタイルのせいか、アルバイトやパートさんから見放されたマネージャーはマネジが上手くとれずに逃げ出し、無断で会社を退職する人が多かったと聞きます。

私自身も100名近くのアルバイト・パートさんたちとコミュニケーションを取ってうまく信頼関係を構築するのは非常に気を遣いました(笑)

自分でいうのもなんですが、このとき私はマネジを取るのがなかなかうまいことに気づかされました。
特になにかを意識していた訳ではありません。

ただ後になって気づいたのは他の潰れていったマネージャーたちが自分本位でシフトなどを決めていたのに対し、私は「相手の立場や都合などに対し真摯に向き合っていた」と思いました。
基本的に自分がされて嫌なことは絶対にしたくなかったのもあるかもしれません。

そういった細かい所で信頼を得ていたのかもしれませんね。

おわりに

長くなりましたが上記に書いたような生活を3年間続けた後、私は会社を退職しました。

先の事を考えた結果、とても自分には続けられそうにないと感じたからです。

経営スタイルが「若手を使い潰して使えなくなったらポイ」みたいな感じでしたし給与水準も特に良かった訳ではなかったですからね。

何より辛いのはプライベートがないということ。
休日でも関係なく上司や店舗から電話が来ますしイレギュラーが起こればその対応もしなくてはなりません(笑)

年間休日は70日くらいしか取れなかったと記憶しています。

おそらくこれらを見越して辞めていく人が多いから150名もの新入社員を採用していたのかなと思いました。

これから就活する学生たちなどの参考になれば幸いです。

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